セルリー栽培100周年記念誌発行 栽培に尽力する生産者、JAの歴史と思いが詰まった1冊に

JA信州諏訪
記念誌を手にする百瀬部会長(右)と五味係長
記念誌を手にする百瀬部会長(右)と五味係長

JA信州諏訪野菜専門委員会セルリー専門部会が2月、管内のセルリー栽培100周年に合わせて記念誌を発刊した。栽培のあゆみを振り返り、写真集や年表などを掲載。長きにわたりセルリー栽培に尽力する生産者、JAの歴史と思いが詰まった1冊が完成した。
セルリーはJAの主力農産物。夏場、国内に流通する9割を管内で栽培している。
記念誌の発刊は2004年の『諏訪野菜のあゆみ』以来、20年ぶり。長野市のPO印刷に依頼し、A4版フルカラー60ページで200部を製作した。
これまでの経過を当時のエピソードや写真とともに掲載。栽培品種の変遷、現在の生産から出荷までの流れを説明するページがある。また、セルリーに関する出来事と同時期のJAの状況、日本・世界情勢を並べた年表もある。歴代の役員名簿と顔写真、JA野菜品評会の入賞者名簿、JA事務局も紹介した。
2月14日、諏訪市のホテル紅やで開いた「セルリー栽培100周年記念式典」でお披露目され、出席者に配布。今後、同委員会の歴代役員にも届ける計画だ。
管内のセルリー栽培は1922年、茅野市の原田与三郎さんが試作したのが始まり。戦時中には洋菜であることから、栽培の登録制や自粛要請、さらには1年間の栽培禁止期間もあった。終戦後、これまで積み上げてきた技術を生かして栽培を再開。物流環境の悪さによる栽培制限など困難な時期も多くあったが、1949年以降は駐留米軍向けの特需が起こり、物流も改善。さらに、肥料の特別配給等の影響で再び生産が活気づいた。
生産者・生産量の増加に伴い、JA組織として「諏訪洋菜専門委員会」を1954年に設立。販売先の選定の問題から生産者間で意見が分かれ、組織が分裂するなど混乱した時期もあったが、1967年に待望の完全統一を果たした。連帯意識の高揚につながり、生産も順調に伸び、産地形成に発展。現在の「野菜専門委員会セルリー専門部会」の礎となった。
記念誌を手にした同部会の百瀬勝彦部会長は「100年が詰まった記念誌ができあがった。読んでもらえれば、先人たちのおかげで日本一のセルリー産地になっていったのかがわかると思う。若い生産者にも手に取ってもらい、これからの参考にしてもらいたい」と期待を寄せた。
編集委員のJA営農部の五味有係長は「編集の過程でこれまでのセルリー生産を学ぶことができ、大変勉強になった。寄稿いただいた多くの方に感謝している。今後も生産者とともに産地の維持・発展に向け、尽力していく」と決意を新たにした。

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